短編小説シリーズ②「五感の一皿」(音声と文字で配信)

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冬の雪の夜に短編小説シリーズその2。可愛がってやってくださいな。

 

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短編小説シリーズ②「五感の一皿」

 

 

 

 だいたいにおいて、寒い。

 二週間前に会ったあの人からは、

「冬は寒い方がいいよ。季節は季節どおりの方がいい」

と云われ、それもそうだと納得していたのだが、寒いよりも空が暗いのが気に入らない。北欧の方では、冬は曇天が長く続くので鬱病になる人が多いと聞くが、全くもってその通りだろうと思う。空の色と人の心模様とは、それほど近しく一体なのだろうと思う。

 

 最近、習い事に興味が向く。先日は易経を教えていただく機会があり、しばらく開いていなかった本を開いた。易のことを知るにつけ、陰と陽でこの世のすべてを解せるとした先人の知恵に驚く。外国でも、易は知る人に知られている。イーチンと呼ばれている易は、困難な決断を迫られた時に活用されている。戦乱の将がそうであったように。

 

 今回、易経の本を読んでみて驚いたのだが、なんと理解できる。

購入した当初は難解な文章に最初の数十頁で観念し本を閉じたのだが、数日前に読んだ時にはなんと理解できた。思わず笑みが浮かぶ。こういう思いは誰しもが経験したことがあるだろう。なぜ、あの頃は理解できなかったのかが理解できない感覚。こんなにも、まるで布に水が染み込むような抵抗のなさ。目で追う文章が今の自分の思考にはまっていく。ぶつからず、反発なく、文章が私に沿うかのように柔らかなうすい布となって躰を包んでいく。大き過ぎると思われた概念がわたしの湖の中へゆっくりと沈んでいく。そして底まで沈み、肚に落ちる。直接知。それは直接知と呼ばれるものだ。

 

 対比する言葉は間接知。

他者から知識を教わることを間接知と呼ぶ。逆じゃないのと問われたことがあるが、この通りである。「知」という言葉の意義が、多分その人と異なっているのだろうと思う。ここでいう「知」とは、自分で実践できるほどに深く理解した状態を指す。直接知は実践なくして得られるものではない。他者から教わり、間接知を賜る。そこから、自分で実践しながら五感からの情報を蓄え、考えを巡らして理解を深めていく。そして、教わった知識にもう一度出会ってみる。その時、直接知は得られるのだ。この考え方は古今東西に見られる。イギリスの詩人も有名な茶人も書き残している言葉がある。

「我々は探求をやめてはならない。そして、我々のすべての探求の最後は初めに居た場所に帰ることであり、その場所を初めて知ることである。T・Sエリオット」

「稽古とは一より習い十を知り、十よりかえる、もとのその一。千利休

 

 わたしの人生初めての自覚した直接知は、5年前の春に訪れた。

 整体師になろうと考え、整体の集中講座を受けた時のことだった。それは一週間に渡って東京で開催された講座で、各地から二〇名あまりの整体師と整体師を志す人が参加していた。教えてくださる先生は長く整体の施術と整体師育成をされてきた方で、一言でいえば偉い先生だった。その偉い先生に習えると意気込んで行った私は、出鼻からくじかれてしまった。なんと、教えてくれないのだ。その先生は手技をまず実演してみせ、その後で参加者同士で実習をさせるというスタイルで講座は進んでいくのだが、肝心なことを教えてくれない。わたしの習った整体では、まず施術する者として「手を作る」ということを重要視していた。だが、先生は手がどういう状態になれば良いのか、どうだと不十分なのか、が知りたいのにそこを教えてくれない。ただ、「なんとなく変わったと感じたらそれでいいんです」「なんとなく変わったな、と感じたら終わりにしてください」としか、言ってくれないのだ。

猛烈なジレンマを感じた。せっかく教わりに来たのに教えてくれないなんて。受講料に交通費や宿泊費で結構なお金をかけて来たのに。そのジレンマは私だけでなく、参加者全員が感じていたと思う。休み時間が来る度に、参加者同士の会話は辛辣となり、先生への不信感が募っていく。施術の実演のあと、質問はありますか、と先生から問われ、勇気を持った参加者が質問するのだがこれがうまくいかない。

 

「先生、手の作り方なのですが何となくというのが分かりません」と聞くと、先生曰く「何となくでいいんです」と宣う。「その何となくというのが分からないので教えて下さい」「何となく変わったら終わりです」この会話が繰り返されるだけ。参加者の鬱憤は最高潮に達し、やり場のない怒りとなって道場に充満していた。その中で先生は美しく端坐して、涼しい顔で「何となくでいいんですよ」と繰り返す。

 

 わたしも質問してみたが同じく惨敗し、ついに怒りを通り越してしまった。怒りを通り越すと人はどうなるかというと、逆に平静になる。もう、いい。偉い先生だかなんだか知らんが、もう聞かん。自分で見つけてやる。

先生から引き出すことをあきらめ、わたしは覚悟を決め、組んだ相手の体に触れた。相手の体に軽く接触している掌から伝わる感覚に、全神経を集中する。先生はもう当てにしない。でも、どうしても知りたい。その思いだけで周囲の音が遠のくほど集中できた。次の瞬間、自分の掌の感触が変化した。それは、ただ分かった。ただ、それが何かが分かったのだ。まるで肚の底から心へまっすぐに光りが走ったようだった。これだ。分かったよ、と皆に言いたくて周りを見回した時、みんなも同時に同じことを知ったのに気づいた。誰も不服そうに実習をしている者はいなかった。ただ、皆自分の感覚だけに耳を澄ましていた。

 目にしている光景は今までと何ら変わりない。怒りの中で実習していたときと、やっていることは一つも変わっていない。だが、それが全く違ってしまったのだと分かった。二〇名余りの参加者が同時に直接知として理解した瞬間だった。先生はと見ると、変わらず美しい姿で端坐していた。先生の勝ちだ。確かに、これは言葉で教えることはできない。直接知をもたらすことは他者には出来ないのだ。出来るのは、直接知をもたらす環境を与えるだけ。先生の勝ちだ。

 

私は、同時にみんなで直接知に達したあの瞬間を忘れることはないだろう。その光景はただただ美しかった。

 

 

 改めて読んだ本の内容が理解できたのは、本から離れていた期間に経験した日々の何かが作用しているのだろう。はっきりと、この経験によって直接知を得たと分かることもあるが、何が作用したのかわからないのがほとんどだ。分かる例でいえば、後輩を育ててみると自分が育ててもらった苦労が分かるなどだ。直接知をもたらすものは実践。それも、知識が頼りにならない環境下で、自分の五感を頼りに進まなければならない実践の仕方が直接知をもたらすように思う。

 

直接知をもたらす実践の場は、生活の中に溢れている。すべてが実践の場となり得る。

 

例えば、食事は楽しい実践の場だ。

あなたの美味しいは、直接知だろうか。間接知だろうか。

かつて美味しかったものを食べる時に、美味しいと感じているのは間接知の可能性もある。

今、生まれて初めて食べるかのように、食べてみる。

先入観なしで、良い思い出も悪い思い出もはるか遠くに遠ざけて、あなたは初めてその食べ物に出会う。

 

その時、ただ味を知る。直接知で。

さあ、五感を頼りに進もう。目の前の食べ物によって、あなたの心と体はそして存在はどう変化するのだろうか。

 

「五感の一皿」完

 

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五感を頼りに進む、直接知の多い人生を送りたいです。

悩むのに疲れた時は間接知が有り難いのですが、結局人は直接知を求めるのだろうと思いますね。 

 

 

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