短編小説シリーズ3「食べるというアート」(文字と音声で配信)

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短編小説シリーズ3「食べるというアート」を配信しました。

食べることにかけては妄執といいますか、並々ならぬ執着があるので、そこを詳しく書いてみました。こんな風に食べる人は少ないだろうな笑。

 

逆に、食べもので何が好きか?と聞かれて、答えられない人もいます。

興味がなさ過ぎて。

私の場合は興味があり過ぎて好きすぎて、選べなくて答えられなくなる場面もありますね。

 

 

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短編小説シリーズ3「食べるというアート」

 

 

 

目の前には、素敵なものがある。

最もわたしの興味をひき、最もわたしを捉えて離さないもの。

 

それは料理。

 

目の前に、お皿の上に乗った揚げ物がある。

 

蓮根のはさみ揚げであった。2枚の輪切りの蓮根のあいだに、なにやら白いペースト状のものが挟まれていて、パン粉をつけて揚げてある。

1/4にきれいに切ってあり、目の前のお皿にはその一切れが乗っている。

 

そのすぱっと見事にカットされた断面から、蓮根と挟まれた白いペーストとカリッと揚げられたパン粉の香ばしいきつね色が一体となって見えた。それはそのような形と色でなければ作れない、なんとも心をくすぐるバランスが保たれていて、心を浮き立たせた。

蓮根のはさみ揚げの横には、トマトらしき赤いソースが少量添えられている。

 

念入りに見る。

吟味ではない。ジャッジではない。ただ、見ている。

しばらくそうしていると、胸よりもっと下の方からなにやら言葉が上がってくる。

言葉というには判然としない、なにか映像のような音のような何かが湧いてくる。

肚から上がってくるそれを受け取って、無理やり言葉に変換するならばこうなる。

 

衣に目がいく

ペースト状の白いものが薄くぼんやりして見える

ソースが迷っている

蓮根は孤独ではないが、孤独になるのを恐れている

 

わたしはそれらをただ受け取って、ふうんと独り言ちた。

周りの大勢の客からは聞こえないほどの小さな声で。

 

ここは東京の惣菜料理屋で、夜は飲み屋となるお店だった。店員の女性二人が厨房に立ち、忙しく働いている。

カウンターの二人連れは楽しそうに店員とおしゃべりをしていた。

 

 

わたしは、蓮根のはさみ揚げを食べた。

期待と興奮と安堵と感謝と歓喜の中で。

 

蓮根のはさみ揚げの1/4カットは口に入ると、まずその粗いパン粉のザクザクとした食感をもたらした。咀嚼するごとに、熱せられた油の濃厚な味と焦がされたパン粉の香ばしさが味覚と嗅覚に訴えてくる。外気を通して香るよりも、ずっと直で生な香りがする。次には蓮根の甘く力強いうま味を感じ、歯茎をなでる蓮根の欠片の時々の堅い触覚がもたらされ、わたしはただ噛むことにしあわせを感じている。美味を生んでいた口の中の食べ物が舌によって食道へと送られて少しずつ減っていき、最後には白いペーストの味を口の粘膜に名残となって残しながら消えていった。ジャガイモだ。白いペーストはジャガイモだった。

 

二口目はトマトらしきソースをつけてみた。

口に入れる。まさしくトマトである。イメージしていたのと違って、玉ねぎは入っていない。薄く塩で味付けしてある。噛む。

トマトソースで濡れた衣はさっきより粗い刺激が減っていて、噛み応えの違いがうれしい。噛むごとに口の中の食べものが撹拌されていく。トマトソースと衣、トマトソースと蓮根、トマトソースとジャガイモペーストを味わう。そしてトマトソースと衣と蓮根とジャガイモペーストを味わう。

 

食べるとは感じる行為だ。

考える行為ではなく。

それは、アートだ。

 

料理をアートだという人は多いだろう。

それにもまして、食べることはアートだと思う。

 

私がアートという言葉の意味をどう捉えているのかというと、アートとはただ心のうちを感じて五感で表したものと考えていて、その送り手と受け手の相互作用によって形成される場のことだと思っている。

 

アートとは、五感によってもたらされる。

アートを創造したいという欲求は、取り巻く環境からの刺激から生み出され、その刺激は五感を通してもたらされる。送り手の内側で生まれた創造の欲求は、送り手の五感を通して表現される。受け手は五感を通して自らの内側にアートを取り込んで味わい、その内側でまた何かが生まれる。同じ空間と時間を共有しているかは問題ではない。アートは時空を超えるものだ。

まったくもって、食べるという行為と同じだ。

 

あなたは誰かの作ったものを食べて、温かみや思いやりを受け取ったことはないだろうか。不思議さや驚きやガッカリしたり、違和感を感じたりしたことはないだろうか。

あるならば、あなたはアートを食べたことがある。

あなたは送り手の内側で創造された何かをアートを通して受け取って、感じたことがあるからだ。

 

アートの最も美しい部分は送り手を動かした「創造したい」、という欲求だろうと思う。

それは彫刻だろうと、絵画だろうと、舞踏だろうと、歌だろうと、料理だろうと変わらない。

 

なぜなら、送り手の真実生み出したいと願ったものは、生み出すことが出来ないからだ。

それでも、創造しようとするところに美しさがある。

送り手の内側から外側へ、つまり現実世界へ五感で表現できる世界へ表そうとする瞬間にズレてしまう。少しズレて表現されたアートは受け手の中でも同じくズレてしまう。哀しいかな。

 

だが、驚くべきことに、送り手の内側で生まれたアートは2重にズレたにもかかわらず、受け手に伝わるのだ。何かが。

その何かを言葉でいうことは大変難しい。

だが、それは誰もが知っている何かである。

 

 

蓮根のはさみ揚げからわたしが受け取った、何かを記しておこう。

 

家庭的でありふれた料理の中に、強い意志と挑戦が感じられた。

それは自信たっぷりでなく、戸惑いながら送り出されていた。

そのため、送り手の創造の欲求の本体は控え目にみえる。でも、確かに私に伝わってきた。

送り手の内側の「食べ物が大好きだ」という熱い情熱は、礼儀正しく遠慮がちにレンコンのはさみ揚げとなって私に届いた。

 

ごちそうさまでした。

 

 

「食べるというアート」完

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少し前に「千年人生」という詩を書いたのですが、これはわたしの実生活を充実するのに役立っています。

この詩の出来た背景には千年同じ一日が繰り返されるとしたら、わたしはどんな一日にしたいのだろうか?という命題があります。

 

千年同じ日が繰り返されるとしたら、

あなたは

どんな朝ご飯を、昼ご飯を、夕飯を食べたいですか?

自分で作りたいですか?

誰かに作って欲しいですか?それは誰ですか?

独りで食べたいですか?

誰かと一緒に食べたいですか?それは誰ですか?

どこで?どんなふうに?

どれくらいの時間をかけたいですか?

 

千年繰り返してもいいと思えるほどの、ご飯て何でしょうね?

いろんな人に聞いてみたいです。

 

 

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